共に生きるために

アサイド

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2013年11月26~29日
ICU教会のリトリートでアジア学院(Asian Rural Institute)にいって、感じたことの記録。

アジア学院ってどんなところって聞かれると、説明がむずかしい。
ホームページにはこんな風に紹介されてます。

”私たちは世界で最も虐げられた人々のために働く草の根の「農村指導者」を養成します。このユニークなリーダーシップ研修は毎年栃木県のキャンパスで行われ、主にアジアとアフリカからやって来た学生たちを対象にしています。公正かつ平和で健全な環境を持つ未来を実現するために世界中の農民の持続可能な開発を目的としております。私たちは自給自足を強調するために、共同体で有機農業を実践しています。” http://www.ari-edu.org/

アジア学院には「フードライフ」と「コミュニティライフ」という言葉がある。

「フードライフ」とは「食料と命は供に切り離すことができない」という
真の意味を示すアジア学院で使われる特有のことばだそう。

朝から夕方まで、石をひろったり、肥料をつくったり、草をぬいたり。
いろんな国の人たちと、ひたすら一緒に体を動かし農作業をする。

いつも何気なく口にしている食べ物には、
こんなにも手間ひまがかかっているんだというあたりまえのことに気付かされる。

「都会の子供は刺身が泳いでると思っている」と誰かが冗談めかして話をしていた。
生産者と消費者はとおく断絶されてて、もはや冗談ですまされなくなってるのかもしれないね。

もうひとつの「コミュニティライフ」とは、あらゆる国の人々との共同生活のこと。

食料の栽培や収穫から、調理や食事まで。
朝のトイレ掃除当番から、夜のお祈りの時間の誘導まで。
それぞれに与えられた役割を丁寧にこなしていく。

このコミュニティライフの核をなしているのが、
モーニングギャザリングという朝の40分ミーティングの時間。

アジア学院の研修生たちが自分の経験や想いをそれぞれの形で共有する。
家族との思い出、自分の国の置かれた状況、アジア学院で学んだ事などを
寸劇にして笑いにしてしまう人、涙を流しながら語る人。
そして最後には、それぞれの国の言葉で祈りが捧げられる。

ある朝のモーニングギャザリングの時間に、けんかをみた。
真っ正面からのぶつかりあい、それは生々しく、
共に生きるということのむずかしさを目の当たりにした。

異なる文化・人種・宗教的背景を持つ人々と一体となること、
国籍、宗教、民族、習慣、価値観等の違いを認めつつ、
共に生活することで、同じ経験を共有し、困難を共に克服していくこと。
それってきれいごとではなく、時にはしんどいこともある。
それでも共に生きる理由ってなんだろう。

自分自身の多国籍寮での4年間を思い返してみる。
衝突、居心地の悪さ、劣等感。しんどいことも多かった。
ただ、それ以上にしあわせなことがあったから、やっていけたんだと思う。

「おかえり」のことば。
ごはんを持ち寄り、わけあうこと。
一緒にお風呂にはいって、他愛もない話をすること。
聖書をよみとき、祈りの時間を共有すること。
幸せってなにか、どう生きたいのか、何時間でもはなせる仲間。
ありのままの自分を肯定してくれて、
そして、すべては神様の恵みのもとにあるという確信をもてた場所。

引率してくれたポール牧師はこのアジア学院滞在中、
何度も何度も「共同生活の豊かさ」という言葉を繰り返してた。
(そして誰よりも彼がたのしんでいたとおもう)

誰かと共に生きる、ということはほんとうに豊かなことで。
“共に生きるために。That We May Live Together.”
このことばを胸に、これからも信仰をあゆんでいきたい
そう思った大事な経験になったのでした。

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ということをここまで書いて、
下書き保存したまま放置していたのをみつけて

誰かと共にいきる、その「誰か」って誰でもいいんだっけ、って
最近のシェアハウス生活へのもやもやはつのるばかり。

合理的な、人間くささのない、うまくやっている、
無難で、大人な、都会的な、暮らし方。

そんなんじゃなくって、
共に生きていきたい人たちと、とことん向き合いたい
これが最近わたしが心から求めてることなんだろうなあ。

“共に生きるために。That We May Live Together.”